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2015年12月6日日曜日

湘南マラソン

ここ3年ほど申込みの要領が悪く?出場が叶いませんでした。これを聞いた当協会(全日本不動産協会)湘南支部の会員さんで、毎年シッカリと自社の社員さん分でも確保している社長が、私の分の申し込みにも一緒にチャレンジしてくれました。しかし、地元枠、一次募集とも確保できず、口が先行していた私は「しめた。これで走らずに済む」と思っていました。6月27日夜、相模大野で本会相模原支部の仲間たちと懇親を深めているとき、彼女から携帯電話がかかり、残り少ない二次募集分で「全員分確保できました」と嬉しい(えーッ)連絡と「本部長、歩いてもいいから完走してくださいね」という優しい?メール。
かくして本日12月6日の大会日を目指し、練習(調整?)をすることになりました。しかし、過去の様にはうまくゆきません。協会の役員を仰せつかっている現在、時間がとても取れにくくなっており、また、年齢と共に悪くなる代謝による体重も増え、「本当に歩いてでも完走できるのだろうか?」と思いつつ大会が近づいてきました。そしてゼッケンがTシャツ、資料、計測用タグ等と共に送られてきました。これを見た途端、弱気は飛んで、出場する方向に気持ちが傾いてきました。
そして、走る一週間前からは、練習はしない、炭水化物をたくさん摂取するなど、自分の都合のよいルールを作り、飲酒も毎晩、そんな準備?をしました。大会当日、天候にも恵まれ、早朝からスタート地点の大磯プリンスホテルに向かっているうちに、どっぷり湘南国際マラソンの雰囲気につかり、どんどん気持ちが集中(昂ぶり)してゆき、まさにランナーズハイ状態になってゆくのがわかりました。この大会、毎回感心するのですが、ボランテイアの皆様が大活躍されており、コースの周辺も含め、ゴミひとつ見当たりません。「来た時よりも美しく」が完璧に実践されています。また、地元住も員への配慮、ランナーへの声かけなど、走っていてたくさん元気がもらえます。今日はこんな文を書いたボードを持って声かけしているボランテイアの方を見かけました。 「ここは挫折禁止」。のぼりの苦しいところですが、思わず苦しい顔が笑っていました。
前回より遅いな、苦しいなと思いつつ、支部役員各位が支部旗を立てて応援して下さっている折り返し地点に着き、記念写真(証拠写真?)を取って頂き、折り返しました。あとは苦しみの連続で、給水ポイントで頂く、飲み物とレーズンを
楽しみに少し生き返り、一応無事にゴールできました。
今年から開催が約一月遅くなりましたが、西湘バイパス二宮から、134号線江の島まで上下線を通行止めして行うのですから行楽シーズンの11月の連休中に行うことに無理があったと思います。このパターンで定着するのではないでしょうか。しかし、今日も伊豆半島石廊崎まで、箱根、富士山、丹沢大山まで走りながら青い海ととも眺めながらキャッチコピーである「湘南の風」を感じ、いつも高速で車が飛ばしている道を全車線通行止めにして一台も車のない安全な状況にも何かを感じて走る、まさに超一級の湘南が誇るマラソンと思います。
一方で、今回はスタート後にコースに不審物が置かれていたとの情報で、多少の混乱があり、正式記録とならない事態も発生した様です。今後はテロにも目を光らせ運営をしてゆく必要もあり、大変ではありましょうが、長く継続するよう
強望するものです。痛い体でこんなことを思いました。

2015年2月21日土曜日

ダイエット

昨年末に驚異の81.5Kgの体重を記録し、驚きと共に衣服に不自由さ感じ、同時に気持ちが不健康になりました。
過去何年間かは75Kg以下を目標に腹筋、腕立て伏せ、毎朝のジョギングを行い、湘南マラソンという命題を自分に与え頑張ってきましたが、昨年の湘南マラソンの抽選に外れたことを言い訳に楽な方に流れ始め、年末の宴席の多さが加わりこの驚きの体重の記録となりました。おりしもタイミングよくラジオ放送で、あるドクターが「16時間ダイエット」というものを勧めておりました。
内容をよく聞いてみると、私でも出来そうな「一日24時間中16時間何も食べないというもので、残りの8時間は特に制限なく食べてよい」という内容でした。そして夕食後から16時間食べないという私のダイエットが始まりました。夕食が20時に終われば翌日の12時の昼食まで、水だけで過ごせばクリアできる訳です。
開始後の効果は抜群で、3週間後には3kg減量していました。現在は約6週間経ち-4.5Kgで、ひと頃の体重に戻りました。ホームドクターからは「どこのドクターが言ったの?食事の回数を減らし、結果的に一度にたくさん食べると内臓に負担がかかる。キチンと3度食べ、その量をコントロールするように」と言われておりますが、暫くこの16時間ダイエットに朝のジョギング(ウォ-キング?)を加え減量に挑戦してみようと思っています。
皆様は体重管理はどの様になさっているのでしょうか?

2015年2月5日木曜日


Renewal

当社のホームページ(以下HPと云います)がリニューアルされました。
細部をご覧になりますとまだまだ未完成な個所が多くあると思いますが、徐々に進化させて参ります。
思えば皆様方にご覧頂いておりました今日までのHPは、今から13年前の年末にその道の知識など全く持ち合わせていない現HP管理人の柳 春逢 取締役に私はIBM社製HPビルダーを渡し、「来年の桜の花が咲くころまでに当社のHPを立ち上げて」と頼みました。そこから彼は独学で「解らない、判らない」を繰り返しながらも、業務の傍ら制作にチャレンジし、本当に桜の花が咲く頃には第1版の公開が出来ました。
とは云うもののその出来栄えは彼我共に満足できるものではありませんでした。
しかしその後、彼は自ら現場写真の撮影とHPへのアップと更新、動画の導入、ブログ新設と更新などを繰り返しながらHP内容の充実と共にしっかりこの技術を自分のものにしてゆきました。この頃から私は取引先から彼が作ったこのHPを評価して頂く声を聞くことが多くなりました。
しかし既に、現在の手作りの当社HPではお客様のニーズに合った機能を備えているとは云えなくなり、一方でおかげ様で当社の本業の負荷も増えている状況では、彼へのこれ以上の負荷は無理があり、彼が世の中のHPを多数観察した結果で、HPのプラットホーム(エンジン)に当たる部分をR社に制作をお願いすることにして、この完成を待って、この上に当社の財産を載せ、このHPが出来上がりました。
HP制作に費やす時間もままならない環境の中で、まずリニューアルを優先しました。
新たにスマホ対応の機能も付しておりますので、順次育てて参ります。
どうか皆様、今まで以上に当社HPの見守りをよろしくお願い申し上げます。

2014年10月12日日曜日

宅地建物取引士


私は会社員時代、理工系出身の技術屋でした。概して技術屋は甲乙が現れる文書類は苦手の様でしたが、特に私は頭が痛くなるほど苦手でした。技師の時代は嫌いで良かったのですが、管理職になったと同時に取引先との契約書類に技術部門として検認が必要となり、これらの文書類との格闘が始まりました。

幸い歴史ある会社は自社を守るための仕組みが出来上がっておりましたので、検認者に私の様な不得手な者がいても大事に至ることはありませんでした。しかし末端の管理職時代はこれで済んだのですが、その後東京技術センター長を命じられ、今度はすべての書類に責任をもって検認しなければならなくなりました。私も「会社を守るため」(といえば聞こえは良いですが、実際は自分が重大なミスを犯さないため)苦手の克服にチャレンジすることを決意しました。とはいえその結果で目標達成(成果物を得る)があれば、学ぶ姿勢も変わってくると思い、司法書士、行政書士、弁理士などの資格取得を検討しました。しかし、試験が難しそうとか、分野が狭く専門的になりすぎる等の理由づけをし、これらを断念、宅建業法、建築基準法、民法をはじめとする各種法律を深堀せず学べ、苦手の克服ができ、持っていれば役に立つこともあるかも知れない資格として「宅地建物取引主任者」を目標としました。この時にはじめて「士」と「者」を認識したことを思い出します。

 平成十八年五月に私は全日本不動産協会湘南支部長として支部役員会に臨んでおりました。神奈川県県本部より平成十九年度国・県に対する予算要望をまとめるべく全支部に要望を提出する様指示があったためです。その席で行政と共に活発に活動している副支部長より関係資料閲覧等の権限を付してもらうためにも「士」にという強い要望が出されました、この要望を県本部の支部長・委員長会議に諮りましたが「時期尚早」と一蹴されましたが、自分もまだ宅建業の経験不足でこれを強く推すだけの認識はありませんでした。この頃の私には「士」というと弁護士、司法書士、税理士などが頭に在り、??という認識でした。彼はその後五年間同じ要望を出し続け、県本部では没になり続けていました。その間に士称を見つめてみると私の認識不足でいつの間にか沢山の士があるではありませんか。一方で宅建主任者は業法で続々と義務と責任が増え続け、消費者のニーズの変化で業務の範囲も拡がり、業務が複雑に高度になっている実態を再認識、神奈川県本部長就任時にこの問題を前進させようと決意しました。

 去る六月二十二日通常国会で改正宅建業法が成立しこの呼称変更が決まりました。残念ですが私の決意は決意だけで終わってしまいましたが、協会としてはこの呼称変更に伴い様々な環境整備が急ぎ必要になっていますので、今はこの一端を担わせて頂いております。

この改正は昭和三十三年に「宅地建物取引員」として取引主任者制度がスタートしてから五十六年ぶりの呼称変更です。
 
前述の通り、重要事項の説明の複雑化など責任が重くなっている実態に合わせ、一方で中古住宅市場が拡大しつつある中、主任者が中心となったワンストップサービス提供の必要性も高まり「士」とすることで地位向上をはかり、その実現を計るものと理解されます。

当然ながら業法では資質の向上が求められ、信用・品位を害する様な行為を禁止する「信用失墜行為の禁止」を新設、「必要な知識及び能力の維持向上に努めなければならない」という文言が追加され、更に「業者は従業者教育に努めなければならない」とする項目が新設されているほか、コンプライアンスが強化されています。詳しくは宅建業法平成二十六年六月二十五日法律第八十一号(未施行)を是非ご一読願います。

 現在は私共の協会で検討・立案中の法に合致した具体策が定まり、展開が始まります。その後には、時間を要すると考えますが、私は現在問題となっている空家問題改善のネックとなっている固定資産税支払者情報の入手、反社会的勢力及び団体の情報入手、その他安心安全な取引・消費者保護に重要となる各種情報が「宅地建物取引士」として入手可能となるべく努めます。

 今回の呼称変更は活躍している宅地建物取引主任者の業務内容にふさわしい呼称に改められたと思っています。

また、社会的地位の向上が得られますが、一方で相応しい資質が求められます。協会でも場を設定しますが、今まで以上に研鑚に励まれ、また従業者教育にも努められることを願ってやみません。

   

 冒頭に触れた元湘南支部副支部長にはこれを一番に伝え、一番喜んで貰える筈なのですが、彼は突然の病で倒れ廃業、音信不通なのが本当に残念でなりません。

2014年4月5日土曜日

ハナちゃんのこと

 1991年春、新潟地区のディーラさんとの定期連絡会議を終え、確か新潟駅20時25分発の上越新幹線に飛び乗りました。当時グリーン車は車両の半分であり、残りの半分はビュッフェだったと記憶しています。このグリーン車には一人だけ先客がおりました。私の席は通路を隔てた同列の反対側でした。その男性は私の方に気を遣いながらスーパーのレジ袋からガサゴソと缶ビールとつまみを出し、小さくなってそっと飲んでいました。燕三条の辺りで目が合い、お互い軽く会釈して彼のビールが空いていたのを見て「宜しければ一緒に飲みましょうか?」。 席を移動して相手をよく見るとハナ 肇、芸名とは云え、同名ということから意気投合、そこからは二人の貸し切りの宴席に早変わり、車内販売が通るたびに缶ビールを買い、飲み続け、上毛高原駅から偶然?乗り合わせたマヒナの面々もハナちゃんは遠ざけ、二人の酔っぱらいの話は続きました。その中で「来週植木達が私の紫綬褒章を祝う会を開いてくれることになっているので、貴方もぜひ来てよ」 私は社交辞令と受け止めましたが酔った勢いで「わかりました」。 また「自分は貴方の会社のダイヤトーンスピーカーが好きで自宅の地下のオーディオルームは全部ダイヤトーンです。今度ぜひ来てださい」。等など二人の酔っぱらいはクドクドと話をし、車内販売の缶ビールが売り切れた(?)頃、確か当時神田駅付近の地盤の事故で新幹線の終着となっていた上野駅地下ホームに到着、前の車両に乗っていた部下が先回りをしてホームで迎えてくれました。彼曰く「よくテレビで見る酔っぱらいのおじさんがヨタヨタと降りてきたらその後ろを同じくヨタヨタと酔っぱらいの部長が降りてきた。そのおじさんはハナ 肇だったのでなお驚いた」と。
 
  この話も忘れかけた1週間後、私の職場に招待状が持参されました。これでは伺うしかないなと当日確か芝公園の東京プリンスホテルに家内と伺いました。たった2時間程度の車内での出会いでしたが、彼は入口で顔を見るや飛んできて居並ぶクレイジーキャッツの面々に「この方 秋山 始さん。この間新幹線ですっかりお世話になった方」と紹介してくれました。
しかし、このパーテイは「何故私がここに居るのだろう」と思うほどの有名人の集まりで一生かかってもお目にかかれない各界の大変な方達に大勢お目にかかりました。そして私のテーブルは隣がソニー盛田昭夫社長の電機業界席?で彼らのオーラと質問に圧倒され続けた時間でした。

 その後、彼のオーデイオルームにもお招きを受けました。月並みですが彼との出会いでたとえ酔っていてでも約束は厳守を改めて感じました。彼との短い出会いで何故か今になって思い出す話は、「定年があるような人生はダメなの。定年がない人生っていうのは素晴らしいの。休んでいられないんだもの」

 かく云う本人は1993年9月10日63歳で鬼籍に入られてしまいましたが・・。

                    
 私もハナちゃんの云う“休んでいられない定年のない素晴らしい人生”を送りたいと
 思いつつ、日々歩んでおります。